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日原いずみ

豊橋南高校50周年記念誌

 

母校の愛知県立豊橋南高校が創立50周年で、記念誌が発行されました。

ここに書くのは、記念誌への自分の寄稿文の補足やエクスキューズです。

まず最初に、記念誌の表紙と寄稿文の画像を載せます。
 


🌟このブログ記事の末尾に、原文(行替えや行間が元のままの文章)を転載します。                                    


🌟高校1年生の時の集合写真で、みなさんにネットへの掲載の許可をもらえないので、記念誌ではそのままの写真が出ているけど、ブログでは(誌面と違い、拡大できることもあり)控えます。

🌟記念誌は、全84ページの立派なもので、ご紹介したい誌面もあるけれど、二口以上の寄付をしてくださった方へのお礼も兼ねた送付であることや、ネットで公開されることが前提ではないので(紙の良さや、閉じられた価値を守りたい気持ちもあり)、自分の部分だけにとどめます。

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話の始まりは、記念誌部会に属する3学年下のRちゃん(面識なかったお方)が、3月に、共通のお友達を通して、私に記念誌の執筆依頼をくださったことからでした。

50周年なので、卒業生50人をピックアップしたそうで、必ずしも1学年一人という選出でもなく、Rちゃんは私の新聞コラムやミニ雑誌の文章を知っていて、推薦してくれました。お会いしたことがないのに、私を知ってくれていたRちゃんの気持ちがとてもうれしかったものの、母校への愛校心や愛着が薄く、同窓会にも熱心でない私が引き受けていいのか迷い(同期に申し訳ないような気持ちになり)、いったん保留にさせてもらいました。その後、6月に、コロナ禍で休止していた同窓会総会が再開され、その二次会の場にRちゃんが訪ね(私は不在)、同期に聞いてくれたところ、そのメンバーも私を推薦してくれて、とてもありがたく思いました。それならば!と、私なりに精一杯の思いを表現しようとお引き受けしました。

結果的に、文字数目安の最大量の1000字ピッタリで書き上げました。

実を言うと、届いたテーマは(書き手としては)解釈が難しくて、どのように書いたらいいか戸惑いました(笑)


このテーマでの選出に入れていただけたことは光栄だけど、私は、自分自身の「活躍」と思う面を書くよりは、高校時代からの自分の歩みを書きながら、同じ高校、同じ学年ならではの気持ちを投影できたらと思いました。

私が書いた内容には、賛否があると承知しています。

例えば、学校群制度の最後の年で、豊橋南高校に振り分けられたことへの否定とも言える描写から入っています。これまで、豊橋で当時の入試制度への不満を口にすることをタブー視する声もあり、それは、第一希望で入った、その後の南高校の出身者や現役生にとっては失礼だから、という理由からでした。

同時に私は、豊橋に住んでいるからこそ、あの制度によって悔しい思いを抱えた声(高校時代だけではなく、大人になってからも)を男女複数から聞いてきたし(承知の上で受けたとはいえ、思いがけないことに出くわしてきた。例えば、きょうだいで学校が分かれたことでの関係の悪化や、よその地域で豊橋出身と伝えて当たり前のように「時習館ですか?」と聞かれた時にこたえ方に困るモヤモヤや苦痛、こだわりはないのに、「自分が行けなかったから子どもを時習館に入れたいでしょ?」と言われるくだらなさなどなど)、息子二人の高校受験を経て一層、あの制度はおかしかったと実感したので、触れずにはいられないと思いました。

私が書いたことは、同期を代表、代弁した声では決してなく、ただ、その制度や、最後の学年でしか感じられなかった何らかの共通の思いはあるので、一つの声として読んでもらえたらと思います。

また、市長選について盛り込んだ部分は、それこそ、意見の分かれる政治観を持ち込むようで申し訳ないし、南高校出身の先輩が市長になったのは喜ばしかったものの、現在の様子には正直不満があります。
ただ、あの時、現職に挑んだ先輩を応援する南高校の同窓会は熱かったし、そのご縁や光景は象徴として盛り込みたいと思いました。

*その時も、時習館の現職と南高校の新人の戦い(同窓会の戦い)と揶揄する人たちがいました。豊橋の人口の規模によると思うけれど、全国的に見ても高校への思いや意識が良いも悪いも強い地域には違いないです。

 

完成した記念誌は、想像以上に素晴らしくて、バラエティーに富んでいて、記念誌部会の方々のがんばりや苦労を想像し、頭が下がる思いでした(しっかりお礼をお伝えしました)。

Rちゃんが、記念誌を渡してくれた時に、50周年記念式典の際のオープニング映像から「木が一本もないような校庭に、木を植えるところからスタートした学校だったんだと知り、涙が出た」と話してくれました。

私も、たまたまの今年の出会いで、1期生の女性たち(当時は時習館の分校的な家政科でのスタートだったそう)からお話を聴けて(運動場の石拾いをしたとか、女子の制服のデザインをしたとか)、大先輩たちが自ら文字通り開拓してくれた学校だったんだ、と感動しました。

11月3日の地元の動植物公園を使ってのイベントも自由度が高く、記念誌の冒頭の「南に始まりがあった」「驚くことに、学校さえも無かったのではないか」「開拓者」「先駆者」という言葉に集約されるように、確かに私たちは、貴重な学校で貴重な体験ができたのかなあと思いました。
「厳にして自由」という校風や言葉の意味を、再確認、再認識する思いです。

 

開校から入試制度の移り変わりなどを経て、様々な生徒が集ったことを実感するうれしいできごとが、この50周年をきっかけにありました。

寄稿文にもある通り、私は、南高校の6学年上の夫とたまたま結婚し、1年生の時の担任の数学のS先生の家の隣に住んでいます。
そのS先生から夏に電話が来て、夫や私たちの高校時代に体育の先生として在任していたK先生の娘さん(偶然夫と同じ学年の方)が、高齢になったK先生が思い出すバスケ部の男子生徒2人を探している、とのことでした。その男性2人に感謝の気持ちを伝えたり、できることならお父さんと引き合わせたいと願う娘さんの気持ちに共感し、私は該当人物を探す協力をしました。
当初の予測は、私たちの一期下の代ではないか?とのことだったけど、結果的には3学年下の21回生で、そこにたどり着けたのは、11月3日のイベントで展示された、全学年の卒業アルバムのおかげでした。

そして、こういう時は絶対につながるんだけど、記念誌の執筆がなければ知り合わなかった依頼者のRちゃんがまさに21回生。Rちゃんに聞いてみたら、該当の同級生男性に連絡ができる、ということで、めでたく、K先生の娘さんに、その男性をおつなぎすることが叶いました。

そのやり取りで触れた同窓生のみなさんが温かくて(最初の一期下の情報をくれた仲間や後輩や、アルバムでの確認に協力してくれた後輩も)、私も感動させてもらいました。

これこそ、運と縁で、南高校に行かなければ出会えなかった方々であり、体験できなかった思いでした。

すべてに感謝、すべてに感謝と思える人生をつくっていくこと。

南高校と同じ50歳の誕生日を前にして、じんわりとした幸せの中にいます。

ということで、毎度長々失礼しました。

以下は、寄稿文の原文です。
すべての出会いに感謝します。


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18回生  藤村昌代 (現姓 菰田  /  筆名 日原いずみ)

『運と縁』

 私は田原市の旧渥美町で生まれ育ち、幼い頃から「豊橋」に憧れ、中学時代、陸上の東三大会で小さな世界が広がり、豊橋の高校を志望するようになった。私たちは学校群制度の最後の学年だった。合格発表の日、豊橋南高校のグラウンドに設置された掲示板を見て私は号泣した。新聞記者が追いかけてきた。15歳の春、自分の力ではどうにもならない「運」や「不条理」を感じた。

 いざ入学した南高校は「都会の豊橋」ではなかったけれど、集まる友達はみんなキラキラして見えた。勉強ができる子と同様に、きれいな子、かっこいい子に憧れ、お洒落な先輩や後輩にも目が行った。バスと電車で片道一時間を超える登下校の高い交通費が申し訳なくて、毎朝弁当を作るために早起きした。

 勉強はたいへんだったけれど、私にとっては半島を飛び出し、「豊橋の高校」で目にするすべてが新鮮で、うれしかった。

 一学年10クラス、様々な個性を持った友達、ユニークで熱意あふれる先生方・・・

 出会いのすべてに、あっちの高校だったら会えなかった人たちなのかな、と思った。人生の要所の一つが自分の意志で決まらなかった気持ちを共有し、「運」や「縁」を肌で感じながら過ごした。

 みんな、与えられた環境での最善を目指し、楽しみ、前向きにがんばったと思う。

 その思考は、人生の様々な局面で、結果的に役立っている。

 高校卒業後は次なる憧れの土地・東京の大学に進んだ。南高校の応援団のおかげで母校を応援する楽しみや連帯感を覚え、早稲田の仲間と肩を組んだ。テレビや美術の仕事を経て、小説が新人文学賞で最終候補作となったのを機に、オリジナルの生き方を求め、ふるさとに戻った。

 紹介されて結婚した夫は偶然にも同じ南高校の6年先輩で、同じ体操服の色、先生方も重なった。家を建てることになり、見つけた土地の隣にはお互いお世話になった数学の先生が住んでいた。南高校時代の思い出や信頼が人生の大きな決断を後押ししたのは間違いなかった。

 時が経ち、夫にとって柔道部の先輩にあたる方が教育長になり、夫も私も結婚前から知っていた先輩が市長になった。市長選の応援演説で豊橋公会堂の壇上から大勢の同窓生たちを眺めた時、あの時南高校に行かなければ見られなかった光景なのだと思った。

 私が南高校で学んだ最大は、運や縁を力に変えることだったように思う。

 私たちの学年は南高校と同じ50歳。出会いや学びを糧に社会のために尽力していきたい。