Love the Moment

日原いずみ

村田諒太さんのコラム


【1月11日 投稿分】

村田諒太さんの書く文章は前から好きだけど、このコラム、すごいなあ(この位置まで経験しないと書けないし、この位置や状況にあってこう書けること)って思う。
身体をつくり、裏切られ(試合がなくなり)、そんな中でも肉体はどうしたって、老いや死に向かうわけで・・・
昔から、静と動が同在してる人に惹かれます。
同在なんて言葉はないけど、同居じゃなくて同在。

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「成功ほどの失敗はない」

 昨年1年間何をしてきたのかと言われると、何もできなかったと答えざるを得ません。
 ポジティブに物事を捉えるのであれば「何もないという状況を耐える経験をした、試合の延期や中止が7回も続き、2年間試合をしないという経験ができた」と言えるのかと思います。
 しかし教育の上で、他者と競い、人よりも成果を上げることが人生の宿題と言えるようなマインドを持った現代人の自分にとっては、奇麗ごとやポジティブな言葉で片づけられる問題ではなく、私と同じような思いをされている方も多いのではないでしょうか?(そもそも教育だけではなく、人間が本質的に持っている業のようなものかもしれませんが)
 「成功ほどの失敗はない」
 OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の言葉が痛く突き刺さります。
 生半可な成功を収めた人間は、自分のアイデンティティーが大きくなり、何もできない状況を耐えられなくなる。
 自分はオリンピック、世界王者、これらを得て、何を得られたのでしょうか。自分個人に目を向けた場合、あまりにもくだらないものをかき集めてきたことだと絶望を覚えております。
 そしてその絶望すらも、他者から見たら絶望する状況に見えぬことも、この「成功」というものが視界を狭くしている証拠なのでしょう。
 ただ、他者に目を向けた場合はそうでもないのかもしれません。
 試合で元気になった、一つの発言、発信に勇気づけられたという言葉をいただいてきたことは、決して無駄ではなかったという一つの証拠なのかと思います。
 下手に成功を収めた一番の苦しみは何かと言うと、個が大きくなり、「全体」から切り離して自分というものを過剰に生きてしまうことではないでしょうか。
 大きな流れの一部であり、寄せては消える波の、その一滴のしずくであるということを受け入れるための、今は試練と言える期間なのかもしれません。たとえ得ることができなくても、失うことを経験していく。それでまた大河の一部となれるのでしょうか。
 仏陀ぶっだは「生老病死」という人間の苦悩を言い表しております。
 生という苦行を乗り越え、新しい何かへ。自分にも皆さまにも、そういった2022年になることに祈りを込めて1月のコラムとさせていただきます。(ボクシングWBA世界ミドル級スーパーチャンピオン