明日のクリスマス・イヴのために、毎年恒例のケーキの準備をしたり、夫はビーフシチューを作っています。
今日は、東京でのお通夜に参列するために、新幹線の切符を買いに行きました。
(ボクシングの村田諒太さんが好きで、その防衛戦を見ながら書いてます)
facebookで知る範囲のことだけど、芝田暁さん(ひとつ前のブログ参照。『赤土に咲くダリア』の担当編集者)の訃報を受けて、作家や編集者の方々が、こらえきれない思いを書いている。
こちらは、記事の筆者さんがシェアしていた芝田さんに関する昨年の記事。
ここで描かれている芝田さんは本当にスゴイ編集者で、よくもこんな人と私はガッツリ関わって一冊の小説を仕上げたものだ、と思えてくる。
とはいえ、イメージとして伝わる豪快さに反して、私にとっての芝田さんは、ひたすら繊細な人だった。
思い出すと泣けてくるので、まとまりなく、断片的に書きます。
まず、私はテレビのAD時代に、NHKBSの「素晴らしき地球の旅」という番組で、まだ大きく売れる前の梁石日さんとご一緒した。
(あ、今、村田諒太が勝ちました)
梁さんが旅人となって韓国を旅する番組。
そんなわけで、梁さんと一時期密に過ごしました(若い奥さんと一緒にカラオケもした)。
その梁石日さんの代表作『血と骨』(ビートたけし・オダギリジョー・鈴木京香で映画化)を担当したのが幻冬舎時代の芝田さんで(つくづく私は偶然に彩られる人生)、その芝田さんが起業~廃業後、たまたまポプラ社に文芸部長としていた時に私は出会うことができたのでした。
出会いの経緯は長くなるので割愛しますが、簡単に言えば、自分の最初のブログが100本を超えた時、育児エッセイになればいいなあと思ってポプラ社の社長に何本かをピックアップして送ったところ、文芸部長の芝田さんに回り、芝田さんが私の文章に興味を持ってくれて、処女作の『チョコレート色のほおずき』も読み込んで、メールをくれたのが始まりでした。
芝田さんは私の予想を裏切って、「新しく小説を書きませんか?」と言ってくれた。
ブログだと、誰が読むかわからないため抑えていた思い、まさに行間を、プロの編集者として読み取ってくれたのだ。
まるでヘアヌード写真の口説き屋みたいに、熱く、まさに口説かれたような印象だった。
「インモラルな小説を書いてほしい」
「藤村さんの血の色が見たい」
「大地に根差したエロスを描いてほしい」
たぶん、探せば、当時のメールが取っておいてある。
さすがに、勢いのある時代の幻冬舎にいた人だけあって、(私にとって当時いいイメージだった)見城徹社長(数々の作家や芸能人にベストセラーを書かせてきたお方)を連想させた。
まだ会ってもいない大物編集者からの口説きに怖気づくような私ではなく、舞い込んだビッグチャンスを絶対にものにしたい!!と思った。
健全な野心というか、本を出す気まんまんだったので、やっと見つけてもらえたような、選んでもらえたような、うれしさしかなかった。
当時の私は、長男が幼稚園の年長で、次男が満3歳を迎え、一年早く(年少のひとつ前)幼稚園に入ったタイミング。
ようやく、自分の時間を確保できるとわかっていたこともあり、ポプラ社に打診したのだった。
売り込み(ミクシィ時代の私の投稿に魅力を感じ、間に入ってくれた出版関係者あり)から、ベテラン編集者に見出され、ブログがそのままエッセイになるだけでもうれしいことだけど、「新しく小説を書かないか?」とスカウトされたような状態は、アメリカン・ドリームとかシンデレラ・ストーリーみたいだと関係者に驚かれた。
私も驚いたし、本が出るまで、壮大なドッキリじゃないかと思うほどだった。
初めての打ち合わせのために東京へ向かったのは、次男が幼稚園に入ったばかりの4月のことだったと思う。
眼光鋭く、口ひげをたくわえ、「こわもて」という表現が似合うような芝田さんと、そちらも初めて会う出版プロデュース業の女性と3人でお話ししながら、小説などまだ一行も書けてないのに、私がこの舟の船頭にならなくてはならないんだ、と思ったのを憶えている。
サポートしてくれる人はいるけれど、書くのは他でもない私なのだ、私が書けなければこの舟は進まないんだ、という現実を突きつけられたようなシビアな気持ちにもなりつつ、それでも、不安よりワクワクが勝っていた。
その後は、8章くらいをイメージし、1章ずつ書いては芝田さんにメールで送った。
厳しくダメ出しをされると思っていたのに、芝田さんは常に褒めてくれて、熱い往復書簡のようなやり取りを重ね(山田詠美さんも言っていたけど、作家と編集者は疑似恋愛をするような関係)、小説は仕上がっていった。
原稿用紙で言えば300枚ほどの第一稿は、1ヶ月ほどで書き上がった。
私は夢中になり過ぎて、気づいたら腱鞘炎になっていた。
腱鞘炎だとも思わず、リウマチの検査をしたほどだった。
あの疾走感は、あとにも先にもあの時だけだと思う。
編集者が伴走してくれて、孤独な作業が孤独ではなかった。
ずっと守られている安心感や、責任を持ってくれる編集者の期待にこたえたくて、いいものに仕上げたい一心だった。
自分のためでも、編集者のためでも、読者のためでもなく、最後は、作品のために、作品を高めていった。
ゾーンに入っていたと言えると思う。
その後、芝田さんが会社を移っても、ずっと私の小説の編集者でいてくれたけど、3.11が起こったり、いろいろと私の中でも心境に変化ができて、芝田さんと再び組んで単行本を出すことは叶わなかった。
でも、友情はずっと続いていた。
小説はいろいろなジャンルがあるけれど、私のような私小説は、実話と創作と混ぜてつくることもあり、自分の内面を当たり前のように編集者にさらす(私の場合は)。
そんなわけで、出会ってすぐに近くなった。
その上で、芝田さんの方が私より年上なのに、彼は常に私を作家として尊重してくれていた。
すごくソフトで、知性と品性を感じるひとだった。
とまあ、今日の思い出はこの辺で。
また、お通夜に出てから、何か書くと思います。
出逢いの不思議。
出逢えてよかったって心から思う。