楽しみにしていた映画『マチネの終わりに』
絶対に観たくて、公開直後は行けなかったけど、予定の合間にねじ込むようにして行ってきました。
☆のびのび書きたいので、これから観る方で何の情報も入れたくない方は読まないでください。
もしくは、ご覧になってから読んでください(^^)
公式HP
ご存知の方はとっくにご存知の、原作は平野啓一郎さんで、ベストセラーにもなりました。
その当時は、平野さんのイメージで難解な話かと思っていて、手に取りませんでした。
映画化を知り、主演が福山雅治と石田ゆり子と発表され、ならば原作を読んでおこう!と思って図書館で予約。買うことにまだ懐疑的だったのでした。
本が回ってきたのは今年の6月で、翌日から我が家にホームステイのアメリカの男子高校生が来るタイミング。
このブログでも書いたけど、カイルとの楽しい日々を過ごしながらも、この小説も想像以上におもしろくて、忙しい夜に二日ほどで読んでしまったのでした。
読み終えた時、夜中に大号泣(笑)
それはそれは繊細で、40代男女の心の機微が丁寧に描かれ、知的な会話や感性の一致に心をつかまれながらも、原作を読んだ人なら誰もがいちばんの問題箇所と思うような場面に腹が立って腹が立って、本を近くに置きたくないほどになりました。
気に入ったら買おうと思っていたのに、手元に置きたくない場面を含む小説でした(つまりそのくらいの内容だし、そのくらいの名作)。
全体を通して、美しい人気者の二人の俳優が、どんな風に演じるのか、小説がどう映画になっているのか、あの場面は?と興味津々でした。
映画の中の好きなシーン。
パリやスペインが出てくるのも良かったなあ~
映画は、分厚い小説がすっ飛ばされるように進んでいくので、仕方のないことだけど、最初は、全然ダメだ~~って思ってしまった。
村上春樹の『ノルウェイの森』が映画化された時もそうだったけど、あらすじをなぞるような内容になってしまい、小説では丁寧に描かれる心理や会話や様々な機微がポイントポイントだけになってしまって、原作を読んでない人にはこれで通じるのかなあ?とか、唐突過ぎないかなあと思ったりもした。
でも、終盤は、原作には描かれていない場面が予想外に出てきて、「映画化」とはこういうことだよなあと、脚本家や監督の挑戦や意欲に敬意を感じた。
例えば小説では当然聴こえてこない(読者に委ねられるギターの音色や、ある重要な『幸福の硬貨』という曲)が、映画の中では私にとっては違和感ない響きとして描かれていて、福山雅治本人が演奏しているのも大きいと思った(個々の場面は知らないけど、エンドロールで示されたサウンドトラックでは演奏が福山雅治になっていた)。
最後まで観て私に残ったのは、恋について、だった。
針の穴を通すような感性の一致で恋が始まり、
それほどの通じ合う貴重な相手なら、
他の雑多なこと、それがたとえそれぞれの結婚だろうが、子どもだろうが、年月や場所だろうが、超えるんだろうな!!
というのが感想。
恋というのは人間特有なのか、他の動物は繁殖の時に恋愛感情がどこまであるのかわからないけれど、元々私は、人間は知恵があるから素晴らしいし愚かだと思っていて、知恵や感情があるからこそ、自分にとって特別な相手を選ぶことでとびきりの幸せも得られると同時に、苦しみも抱える。
しかし、そんな人間だからこそ、大勢の人間の中で、針の穴を通すほどの出逢いの一致、その中での気持ちの一致、それが最上のものならば、時や場所や環境、すべてを乗り越えてでも一緒になれるのかな、など思った。
映画のプロモーションも兼ねて福山さんと石田さんがテレビ番組に出まくっていたけど(笑)、そのある番組の中で、ゆり子さんが、「待ち過ぎた」と表現していて、本当にその通りで、大部分がイライラする映画なんだけど、最後の希望は、温かい光を残してくれたと、私は思っている。
恋愛が好きな人なら、小説も映画も、あーわかるわかる、という、繊細な共感がうれしいと思う。
それにしても、石田ゆり子もだけど、福山雅治の肌がきれい過ぎて、修正のできる今の時代だけど、全編修正は無理だろうから、本当の肌だよなあって思うと、もうびっくりなのでした!